尾張横須賀まつり

横須賀まつりの歴史

祭りの発祥

今を遡ること、三百数十年前、江戸時代の寛永年次(1660~ )のことです。
当時、この土地は、馬走湖と言われ美しい海岸線をもった風光明媚な開静な海辺の村でした。
そこへ、寬文4年(1664)、尾張の二代目藩主・徳川光友が訪れ、この地の、海の景観に魅せられ、伊吹山から伊勢湾を一望できる、この景勝の地に自身が理想と描いた別荘の造営を計画したのです。そして、寛文6年(1666)、別荘である『横須賀御殿』が竣工しました。これを契機に、この地は、「馬走瀬,」から「横須賀町方」へと地名も改名されました。
以降、光友公は夏場から秋口にかけて、避暑と政(まつりごと) を兼ね、度々『横須賀御殿』に訪れ、よく潮湯治をしたと云われています。
また、光友公は信仰心に厚く、この地に訪れる度に氏神様である『愛宕神社』へ参拝され、地元の人達とも気さくに会話を交わされて親睦を図られたと言われています。この『愛宕神社』の例祭が、毎年、旧暦の8月24日(新暦では、9月下旬)に挙行されていたことから住民達が話し合い、この地に居られるお殿様の旅情をお慰めしようではないかと氏神様の例祭に合わせて余興として始めた催事が『尾張横須賀まつり』の起源と言われています。

傘鉾祭りから山車祭りへ

当時は、『傘鉾まつり』と言われるもので、住民達が「傘鉾」を手で捧げ持つて町中を練り歩いたり、時には、この傘鉾を屋台に載せて曳き廻す「まつり」であったようです。
このような『傘鉾まつり』が何時ごろまで続けられていたのかは定かではないですが、明和6年(1769)に発刊された「尾州年中行事鈔」と云う書籍の中に「・・・町中、傘鉾を棒げ回る・・・。」と記載されていることから、この頃までは『傘鉾まつり』が挙行されていたものと思われます。 何時頃から、『山車まつり』へ移行をしてきたのかと云えば、天明3年(1783)、旧『横須賀御殿』跡地に『横須賀代宮所』が設けられた。この代官所は知多半島から西浦一帯(75ヵ村)を管轄するもので、ここ横須賀町方が行政の中心地になったことから人口が急増し、町には商家が建ち並び人の出入りも頻繁になりました。また、横須賀町方は尾州廻船による物流も盛んに行われていた所で、港を持った商業地として飛躍的な発展を遂げました。
そこで、名古屋の町で挙行される「山車まつり」の素晴らしさを知つていた地元の先人達は、かって、藩主の別荘(横須賀御殿)があった縁の地で、何とか「山車まつり」が出来ないものかと思案のあげく、この地で「山車」が造られました。こうしてこの横須賀の町に初めて「山車」が登場したのは、寛政年次(1789~ )後期のことで、その後も、文化年次(1804~ )初期には、2軸の山車が造られ、さらに、文政年次(1818~ )には、2輌の山車が建造され計5軸の山車が祭りに参加するようになったのである。 以降、江戸時代後期から現在まで止まることなく勇壮で約爛豪華な「からくり・山車まつり」が連綿と続けられています。 今を遡ること、三百数十年前、江戸時代の寛永年次(1660~ )のことです。

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